<アレクサンドル・ヴヴェジェンスキー略歴>

1922年のヴヴェジェンスキー
1922年のヴヴェジェンスキー

 1904年11月23日、ペテルブルグにて、アレクサンドル・イワーノヴィチ・ヴヴェジェンスキー(1904-1941)は、司祭の息子だった父と陸軍中尉の娘だった母とのあいだに長男として生まれました。後に父親は経済学者として働き、母親は婦人科医として有名になっています。

 

 1917年、有能な教員がいることで名高いレントフスカヤ名称ギムナジウムにヴヴェジェンスキーは転校します。この学校で彼は生涯の友となるリパフスキーとドゥルースキンに出会いました。そのドゥルースキンがのちに回想するところでは、ギムナジウムでロシア語ロシア文学を教えていたレオニード・ゲオルグは彼ら三人に非常に強い影響を及ぼしたといいます。

 

 ドゥルースキンのエッセイによれば、1917年あるいは1918年に、ヴヴェジェンスキーとリパフスキー、それにアレクセーエフという生徒は、共同で未来派詩人たちを戯画化した作品を書いています。戯画化といってもそれは親しげなもので、フレーブニコフ、ブルリューク、クルチョーヌィフら未来派の詩人たちに対しすでに関心があったことを窺わせます。

 

 1921年、この三人は著名な詩人アレクサンドル・ブロークに自分たちの詩を書き送りますが、ヴヴェジェンスキーの詩は残念ながらブロークの気に入りませんでした(彼の興味を一番惹いたのはアレクセーエフの詩でした)。

 

 ギムナジウムを卒業すると、ヴヴェジェンスキーはペトログラード大学の社会科学部(別の情報源によれば法学部)に入学しますが、やがて東洋学部の中国語学科に転科、しかしやがて学業を放棄してしまいます。その後、書記として働いたり、発電所「赤い十月」に勤務したりしましたが、文学には携わりつづけました。

 

 彼はクズミンやクリューエフ(当時のロシア文学の長老)、ザーウミ詩人にして演出家のテレンチエフ、画家フィローノフとその弟子たちといった芸術家と出会い、親交を結びました。そして国立芸術文化研究所(ギンフク)の音韻論部門の長だったテレンチエフのもとで働きます。1924年には「詩人同盟」のメンバーになっています。

 

 翌1925年、若い詩人たちによる自作の詩の朗読会に出席したヴヴェジェンスキーとドゥルースキンは、そこでハルムスと出会い、一気に打ち解けます。こうしてヴヴェジェンスキー、ドゥルースキンリパフスキー「チナリ」の仲間にハルムスが加入することになりました。

 

 ヴヴェジェンスキーとハルムスは「ラジクス」や「左翼」といったグループにともに加わり、1927年末にはついに「オベリウ」を結成します。グループ立ち上げに主導的な役割を果たしたのはヴヴェジェンスキーではなくハルムスだと思われますが、ヴヴェジェンスキーは朗読会やオベリウの夕べに先陣を切って参加していました。ハルムスはかなり奇抜な格好をして鬼面人を驚かすところがあったのに対し、ヴヴェジェンスキーはいつも黒いスーツに白いネクタイという格好で、対照的でした。

『ヴヴェジェンスキー全集』モスクワ、1993年。写真は裏表紙。

 

 1928年からは、ヴヴェジェンスキーとハルムス、それにオベリウの何人かのメンバーは児童文学作家のマルシャークに勧められて児童向けの作品を書きはじめます。それらは『ハリネズミ』と『マヒワ』という雑誌に掲載されました。ヴヴェジェンスキーにとって、この仕事は生活費を得るための唯一の手段となりました。

 

 ヴヴェジェンスキーの大人向けの作品は生前ごくわずかしか活字にならなかったのに対し、この児童向けの作品は人気を博し、薄い本とはいえ何十冊も出版されました。また、彼はグリム兄弟の翻訳を手がけたりもしました。

 

 1930年、オベリウは反革命の烙印を押されて解散を余儀なくされ、翌1931年12月10日、ヴヴェジェンスキーは乗っていた電車のなかで逮捕されます(同時期にハルムスも逮捕)。1932年3月21日に釈放されますが、流刑を科され、クルスク、ヴォログダ、ボリスグレプスクといった町を転々とします。しかし、これら流刑地で彼は『灰色ノート』と称されるテキストを書き綴ったのでした。これは表紙が灰色のノートに書きためられた、時間や死をめぐる随想で、断片的で完結していないものが多いにもかかわらず、ヴヴェジェンスキー文学において重要なものです。

 

 レニングラードに帰還したヴヴェジェンスキーは「作家同盟」に加盟します(1934年)。そして1936年にはハリコフに移住し、そこでヴィクトロワという女性と出会い、結婚。息子のピョートル(1937-1993)が生まれます。

 

 1941年9月27日、ヴヴェジェンスキーは「反革命」の廉で逮捕されます(10年前の最初の逮捕のときと同様、列車に乗って出かけるところだったといわれます)。そして、1941年12月19日、カザンへ移送される途中で肋膜炎に罹患し、命を落としました。

 

 ヴヴェジェンスキーはハルムスと並んでオベリウのなかでは最も人気のある詩人・作家です。日本でも割と早い時期からその名前が知られており、戯曲『イワーノフ家のクリスマス』などが一部のロシア文学愛好家のあいだでよく読まれています。

(2015年1月2日)