<レオニード・リパフスキー略歴>

1920年代のリパフスキー
1920年代のリパフスキー

 レオニード・サヴェーリェヴィチ・リパフスキー(1904-1941)はレントフスカヤによって創設されたギムナジウムで学び、同じ学校の同級生だったヴヴェジェンスキーと友情を育みました。当時リパフスキーを指導していたロシア語教師ゲオルグは、すでに詩を書いていた彼のことを「哲学少年」、「ギムナジウムで最も優れた生徒」と評しています。

 

 1921年1月にはアレクセーエフおよびヴヴェジェンスキーと一緒に高名な詩人アレクサンドル・ブロークに自分たちの詩を書き送っています。ブロークの返事そのものは残っていませんが、しかし「ちっとも気に入らない。アレクセーエフのはマシ」とメモ書きされた若い詩人たちの手紙のほうは公文書館に保管されています。

 

 同年学校を卒業すると、リパフスキーの書いた『対話詩』が『詩人ギルド作品集』に掲載されます。この「対話」という形式は、リパフスキーお気に入りのジャンルになりました。翌1922年にはさらに二篇の詩が活字になります。ところが、同じ学校の先輩だったドゥルースキンの回想によれば、リパフスキーは1923年には「詩を書くのをやめてしまった」ようです。

 

 彼はペトログラード大学で哲学を学び、平行してサンスクリット語の勉強にも勤しみました。1926年に大学を出て、社会学の教師としてレニングラードの学校で教鞭を取るようになった彼は、やがて国立図書出版所レニングラード支部で編集者として働きはじめます。

 

 また、1926年から彼はサヴェーリェフというペンネームで執筆を開始し、十月革命を題材に子ども向けの本を著します。彼は子ども向けに科学の読み物も書きはじめました。それと同時に哲学的・言語学的著作も多数ものしています。なかでも『言葉の理論』や『恐怖の研究』はとても興味深い論文です。ドゥルースキンによれば、「リパフスキーは言語学の知識がほとんどなかったものの、新しい言語学の理論を創造し、それを「言葉の理論」と呼んだ」。

 

 リパフスキーの考案した用語として有名なものに「使者」と「隣の世界」があります。これらはむしろドゥルースキンにとって非常に重要な概念となったので、彼の言葉を借りて説明すれば、「使者」とは「想像された世界の存在であり、恐らく我々とも何かしら共通点をもっている。彼らは我々と同様死すべき存在でさえあるかもしれない。しかしそれと同時に彼らは我々と鋭く対立している。彼らには我々にはない特質や性質があるのだ」。

 

 ここで言われている「想像された世界」というのが「隣の世界」のことです。それは仮想世界であり、哲学者の膨らませる想像のなかにだけ存在しています。 

リパフスキー『恐怖の研究』モスクワ、2005年。リパフスキーの著作集。

 

 リパフスキーはヴヴェジェンスキーとドゥルースキンとともに文学サークル「チナリ」を結成、のちにヴヴェジェンスキーが彼をハルムスに引き合わせます。彼らは固い友情で結ばれました。1920年代から30年代にかけて、リパフスキーの自宅で「チナリ」あるいは「オベリウ」の会合が頻繁に開かれました。彼はその会話の内容を書きとめており、とりわけ1933-1934年の会合は『会話集』のなかでいま読むことができます。リパフスキー本人のほか、ハルムス、ヴヴェジェンスキー、ザボロツキー、ドゥルースキン、言語学者・ドイツ学者のドミートリー・ミハイロフ、そしてリパフスキーの妻タマーラがこの会話に参加しています。

1930年代末、リパフスキーは子ども向けに物理学の本を著そうとしましたが、この仕事は大祖国戦争によって中断させられてしまいます。彼は1940年にバルチック艦隊の対空防衛部隊に所属し、翌1941年11月にレニングラードの港湾都市ペテルゴフにて戦死しました。

 

(2015年1月1日)