<アレクサンドル・トゥファーノフ略歴>

1925年のトゥファノフ
1925年のトゥファノフ

 アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・トゥファーノフ(1877-1943)は1877年11月19日にサンクト・ペテルブルグで生まれました。しかしその半年後に両親は彼をボロネジに連れてゆき、そこで7年過ごしたのち、家族はアルハンゲリスクへ赴きます。さらにヴォーログダ(ロシア西部の河港市)で彼が初等教育を終えると、ふたたびサンクト・ペテルブルグに帰還しました。1902年、そこの教育大学で学業を終えた彼は、革命的プロパガンダに従事し、逮捕されてしまいます。が、翌年には自由の身となりました。

 

 しかし、最初のロシア革命後に彼はまたしてもプロパガンダ活動をはじめます。1907年、村の教師や農民を集めて集会を開いた廉で、逮捕されてしまいます。服役後、彼は政治から距離をおいてジャーナリズムや編集の仕事を開始し、やがて民衆の教育に力を尽くすことを決意します。教育に関する論文を書き、民衆の教育問題について報告し、教育書を編集し、子どもたちに勉強を教えました。ところが政治的に信用ならないという理由で彼は定職にはつけず、やむなくこの仕事を放棄することになります。1915年、37歳のトゥファーノフが次に尽力したのは、文学でした。

 

 彼はすでに8歳のころから詩作をしていました。1922年の自伝によれば、幼時の彼に強い影響を与えた作家は、レールモントフ、ツルゲーネフ、トルストイ、フェート、チュッチェフ、1907年以降はポー、マラルメ、ブリューソフ、バリモント、そしてカントとショーペンハウエルだったといいます。2度目の逮捕の時期(1907年)にリアリズムからシンボリズムへの芸術上の転向が生じたと彼自身は述懐していますが、彼が初めて公の場に詩人として登場したのは、1915年のことです。ただ、その前年1914年に彼は『エゴ・フトゥリズム(自我未来派)について』という論文を出していました。彼の論文、詩、散文は1916年から1918年にかけて、『皆の生活』という雑誌に掲載されるようになります。1916年11月、彼は『アイオロスの琴』という本(論文・詩・翻訳集)を出版します。それはシンボリズムの衣鉢を継ぐものでした。

 

 しかしながら、1917年のロシア革命の時期にかけて、トゥファーノフはベルクソン哲学と出会い、そしてフォルマリストたちの著作を知ります。この新しい思想の影響下で、彼の詩作は本質的な変貌をとげることになるのです。シンボリズムの皮を脱ぎすてた彼が探しあてたのは、ザーウミ(超-理知的言語のこと)でした。

 

 1918年、ペトログラードで起きた飢饉を避けるため、彼は弟のニコライとともにアルハンゲリスクへやって来ます。そこで弟がボリシェヴィキに対抗して戦っているあいだ、トゥファーノフは様々な場所で、あるいは教育問題について発言し、あるいは民衆のチャストゥーシカ(ロシアの俗謡)について報告し、あるいは文学について演説をおこなっています。この頃にはすでに彼はザーウミ詩を聴衆の求めに応じて朗読していたといわれます。アルハンゲリスクにおけるこのような文化的生活は、しかし弟の戦死によって断ち切られます。トゥファーノフは反ボリシェヴィズムを標榜し、アジテーションやプロパガンダの仕事に向かうようになるのです。ところが赤軍の侵攻によって、1919年9月に彼はアルハンゲリスクを去り、1921年にかけて各地を転々としながら、ふたたび教育・チャストゥーシカ・文学について講じつつ、文学の仕事にいよいよ熱中してゆきます。

 

 1921年9月、ペトログラードに舞い戻ったトゥファーノフは、翌年のフレーブニコフの死後、「時間王国ヴェレミール二世」「ザーウミ地球議長」を名乗りはじめます。これは両方とも、ザーウミ詩人ヴェリミール・フレーブニコフの跡を継ごうという意志をあらわしています。1923年冬~1924年に彼は『ザーウミへ』という小冊子を上梓します。そして全ロシア詩人同盟レニングラード支部の創設とともにその活動に参加、自ら催した文学の夕べで報告をおこない、自作の詩を朗読します。翌1925年、彼は若い左翼詩人たちを結集させる目的で、「ザーウミ派結社DSO」を設立しました。まもなくこれに参加したのが、ハルムスです。

1910年代前半のトゥファノフ
1910年代前半のトゥファノフ

 

 このときトゥファーノフは48歳、ハルムスは19歳でした。結社の他の主要メンバーも、ハルムスと同年代の若者たちでした。トゥファーノフが師匠の役割を演じたのは自然なことでしょう。彼らは毎週月曜日に集まりました。トゥファーノフは自分の弟子たちに課題を与えて詩を朗読させ、それを形式的・音声的側面から分析するなど、一種の教育体制を敷いていました。1925年10月16日(17日という説もあります)、「DSO」とレニングラードの左翼詩人たち共同の詩の夕べが開催されます。そこでトゥファーノフは360°の視覚に基づいた詩人の階級化を図り(360°の視覚で(ザーウミ)詩を書かねばならない)、抽象的ザーウミ詩を提示しました。彼にとっては首尾よく終わったこの夕べの半月後に、「DSO」は「左翼」というグループへ改組されます。

 

 「左翼」のメンバーは、トゥファーノフ、ハルムス、ヴヴェジェンスキー、マルコフ、ソロヴィヨフ、後にチョールヌイ、ボガエフスキー、そしてヴィギリャンスキーでした。このグループの議事録を見るかぎり、中心的メンバーはトゥファーノフとマルコフであり、実際彼らは毎週水曜日にマルコフのアパートで集会をおこなっていたようです。

 

 しかし、彼らが共同で文学的パフォーマンスをしたことはほとんどなく、個々のメンバーによるパフォーマンスが主体でした。ここでは個人主義が強調されていたのです。ところが、「左翼」での規律は厳しく、トゥファーノフやマルコフは何度かヴヴェジェンスキーの提案を退けるなど、自由な活動は著しく制限されていました。

 

 そんな中、バーフテレフの回想によれば、トゥファーノフはヴヴェジェンスキーと口論、1926年1月27日にハルムスとヴヴェジェンスキーとヴィギリャンスキーは「左翼」グループから脱退します。この結果、組織としての「左翼」は消滅するのです。もっとも、トゥファーノフは1926年のあいだに「左翼」という名義をしばしば用いています。その理由はいくつか考えられますが、組織は崩壊したとしても、トゥファーノフはマルコフやハルムスとの交友をやめていなかったことは事実としてあります。1926年12月~1927年3月にかけて、ハルムスとヴヴェジェンスキーは「ラジクス」という演劇グループに合流、再び「左翼」と名乗ります。トゥファーノフはそのメンバーではありませんでしたが、しかし彼らのパフォーマンスに参加していたといわれています。

 

 1927年、トゥファーノフは『ウシクイニキ』という詩集を出版しますが、しかしこの頃より自費出版が禁じられ、彼はもはや一行たりとも世に出すことができなくなりました。翌年の1月19日におこなった、芸術史研究所における芸術言説室での演説を最後に、彼はザーウミに関する報告を一切しなくなります。

 

 1931年12月10日、トゥファーノフは逮捕されます。1933年5月に釈放され、1936年8月まで文学の創作と翻訳に従事しながらオリョールで過ごします。それから彼はノヴゴロドへ赴き、相変わらず文学の仕事を続けますが、しかしすでにそれはリアリズム文学へと移行していました。1938年になると、ついに文学活動を事実上放棄します。

1941年9月、ガリチ(ウクライナのドゥニェストル河畔の都市)へ行く許可を得たトゥファーノフは、実際にそこで晩年を送りました。1942年12月19日‐21日の妻へ宛てた手紙が彼の最後の手紙となりました。1943年3月15日、衰弱のため死去したと伝えられています。

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『流刑された文学者の手紙 トゥファノフ夫妻の往復書簡集』ペテルブルグ、2013年。

 かつてジャッカールは、トゥファーノフのことを「二流の詩人」と呼びました。実際、彼の理論は独自に打ち立てられたものではなく、多くの作家・思想家たちの引用で成り立っていると否定的に指摘した研究者もいます。フレーブニコフ、ベルクソン、マチューシンの影響は、実のところ極めて巨大です。私事ながら、以前私は「ハルムス研究にとってトゥファーノフはどのくらい重要なのか?」と日本で問われたことがあります。

 

 トゥファーノフの創作の全容は、ロシア国内でもまだ明らかになっていません。ハルムスとの関係性にも、究明の余地があります。「研究するに値しない」と答えを出すのは後世の研究者たちに任せて、我々はひたすら彼の生涯と詩学について思索を続けるだけです。

(2013・2・19)