<ニコライ・オレイニコフ略歴>

1928年12月のオレイニコフ
1928年12月のオレイニコフ

 ニコライ・マカーロヴィチ・オレイニコフ(1898-1937)はモスクワを南西に900キロあまり下ったカメンスク村の裕福なコサックの家に生まれました。1916年にカメンスク師範学校に入学しますが、1918年には市民戦争に参加、赤軍兵士として戦いました。1920年にボリシェビキ党に入党、翌1921年には詩を書きはじめます。

 

 バフムトという都市に移った彼は『全ロシアのボイラー室』という新聞のもとで働きはじめます。出版業に携わったことのなかったオレイニコフですが、いきなり責任編集者を任されます。1923年には、ペトログラードからやって来たミハイル・スロニムスキーとエヴゲーニイ・シュヴァルツと一緒に雑誌『坑道』を創刊します。その2年後、すでに職能を身に着けていた彼はレニングラードに赴任を命じられ、新聞『レニングラードのプラウダ』で働くことになりました。

 

 レニングラードでは、マルシャークによって創刊された児童向けの雑誌『新ロビンソン』の編集に携わりました。他の新聞や雑誌と協力して作業していたオレイニコフは、1928年に新しい児童向け雑誌『ハリネズミ』を創刊します。そこでは、ジトコフ、チュコフスキー、ビアンキ、プリーシヴィン、シュヴァルツら錚々たるメンバーの作品が活字になりました。そしてハルムスヴヴェジェンスキーザボロツキーオベリウのメンバーの作品もここに掲載されたのです。後にはオレイニコフ自身がこのオベリウに接近しましたが、正式なメンバーにはなりませんでした。さらにもう一冊児童向けの雑誌『マヒワ』を創刊したオレイニコフは、「マカール・スヴィレープィ」というペンネームでここに自らの作品も載せました。「スヴィレープィ」とは、「獰猛な」「激烈な」といった意味の形容詞です。

 

 実際、オレイニコフはかなり情熱的な人物で、若い頃は波乱万丈な半生を送ったことで知られています。また、その人付き合いはかなり危うく、マルシャーク、ジトコフ、シュヴァルツら多くの児童文学者たちと親しく付き合って固い友情を結んだかと思うと、絶交したり、絶交させたりしていたのです。

 

 けれども、そんなオレイニコフの仲介もあって、ハルムスはマルシャークを紹介されました。またハルムスの児童向けの作品のほとんどは、まず最初にこの『ハリネズミ』と『マヒワ』に掲載されました。その意味で、オレイニコフの「獰猛な」までの活力(交遊関係や雑誌を創刊するエネルギー)は、ハルムスの実際的な役に立ったといえます。

 

 さて、オレイニコフの書いた児童文学のなかで最も有名なものは、『すばらしい休日』、『戦車とソリ』、そしてペトログラードの十月革命と市民戦争を題材にした『戦いの日々』でしょう。これは史実の・革命の題材を扱いつつ芸術的に彫琢されており、ロシア児童文学の歴史においては、そのようなものとして初めて成功した試みでした。

他方、彼の書いた詩のなかで最も有名なのは、『ゴキブリ』(1934年)という詩です。コップのなかに落っこちてしまうゴキブリの悲哀をユーモラスに描いています。そこでのゴキブリは、ロシア文学において19世紀以来の伝統的なテーマである「小っぽけな人間」の謂いだとみなすことも可能です。

 

 1937年になるとすぐ、オレイニコフはもう一冊の児童向け雑誌『コオロギ』を主宰しますが、その年の7月3日、「反革命的なトロツキーの組織に参加した」廉で逮捕され、同年11月24日、銃殺されます。

1957年、つまり死後20年後にオレイニコフは名誉回復されます。そして彼の未亡人のもとには、オレイニコフは1942年5月5日チフスのため死去した、という証明書が支給されたのです。……

 

★本頁の大部分は、ハルムス研究サイトのオレイニコフに関するページに基づいておりますが、それ以外の情報もかなり追加しています。

(2015年1月1日)