「崎」と「﨑」、あるいは「青が消える」其之二

村上春樹の小説に「青が消える」という短篇があります。1999年の大晦日の夜に、とつぜん青が消えてしまう。そのことに「僕」はすぐ気づくが、他の人たちはまったく気づかず、いつもどおりの生活を送っている――。そんな話です。

 

宮「崎」駿が宮「﨑」駿に変わっても、そのことに気づかない人たち。または、変わったことに気づいても不思議に思わず、まるで昨日までずっとそうだったかのように受け入れてしまう人たち。そういう世間に対する違和感が、今回の「其之二」のテーマです。

 

2022年、ジョン・ケアード演出の舞台『千と千尋の神隠し』が日本で上演されました。ポスターには、「原作:宮﨑 駿」と明記されています。

また「introduction」にも、「宮﨑駿監督の不朽の名作である『千と千尋の神隠し』」と、「﨑」表記で書かれています。しかし『千と千尋の神隠し』の原作者かつ監督は、宮「崎」駿であって宮「﨑」駿ではありません。『千と千尋の神隠し』を監督したときも「﨑」表記であったかのような書き方は、大袈裟な表現を使えば、歴史修正です。

 

「どっちだって同じだろ」とか「小さいことにこだわりすぎ」とかいう声が聞こえてきそうです。実際、われながら「小さいこと」だとは思います。でも重要なことです。

 

其之一」でも書いたように、創作においてペンネームはしばしば重要な意味をもちえます。本人のみならず受け手にとってもです。ジャンルやテーマごとにペンネームを変える人もいます。たとえば翻訳家の小笠原豊樹は、詩人としては岩田宏というペンネームを用いていました。真木悠介/見田宗介を使い分ける社会学者もいます。初期と中期以降でペンネームの異なる作家もいます(チェーホフ)。作品ごとにペンネームを変えたため、作品とペンネームの関係について詳しく研究されている作家もいます(ハルムス)。

 

どうして宮崎駿が「宮﨑駿」名義で『毛虫のボロ』と『君たちはどう生きるか』を発表したのか。確かなことはまだ分かりません。大きな意味があるかもしれないし、単にJISの制約から自由になったからかもしれません。いずれにしろ、「崎」と「﨑」の違いを等閑視してしまえば、今回の「改名」はなかったことにされます。もし「﨑」に変えたことに意味があったとすれば、等閑視は、その意味を堕胎させる行為です。

 

と、また大袈裟なことを書きましたが、個人的な感覚をいえば、「改名」に気づかない、またはすぐ受け入れるという事実そのものが不気味に感じます。「右」と言われれば右を向き、「左」と言われれば左を向く、そういう一糸乱れぬ不気味さです。

 

村上春樹の小説を読み終えて、青が消えたことに気づかない人なんて本当にいるだろうか、これはあくまで小説の設定にすぎない、と思うかもしれません。でも実はすでに消えていたわけです。気づいてなかったんです。

 

8月8日追記

余談ですが、『君たちはどう生きるか』を観て、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』をぼんやり想起しました。11日にパンフレットが発売されるとのことですので、この機会に改めて鑑賞しようと思います。