ほんのこども (On the novel by Ryohei MATIYA)

町屋良平『ほんのこども』(講談社、2021年)は、彼のこれまでの小説のなかで一番の傑作のような気がします。多くの人にとっておそらく「拙い」と感じられる彼の小説の言葉が、当たり前に世界を認識し、当たり前にその認識を言語化することのできない(あるいは生理的に拒絶してしまう)、やむにやまれぬ精神の苦闘の発露であり痕跡であることが切々と伝わってきました。

 

ちなみに『ほんのこども』には、ハルムス研究者が登場します。いや逆説的な言い方になりますが、登場しないと言ったほうが正確かもしれません…。いずれにしろ、「ハルムス」という名前が小説の中に出てきます。

(ぼくはその研究者のモデルであるというより、触媒である、と言うべきかもしれません。実在の人物とその小説化という課題は、『ほんのこども』の根底にある課題です。)

 

『ほんのこども』は、ハルムスのみならず、多くの詩人・作家が書いたものとも響き合っています。 町屋良平自身の他の小説、そして海外の作家・詩人の小説と詩とのあいだに、共鳴を聴きとることができます。

 

作家本人がどれほど自覚しているか分かりませんが、ぼくは勝手に、この小説は『しき』(2018年)と『愛が嫌い』(2019年)になされた否定的な批評へのカウンターだと感じました。

 

『しき』に対し、「つくも」という少年をもっと掘り下げるべきだ、というコメントをした作家がいました。『ほんのこども』に登場する「あべくん」こそ、掘り下げられた「つくも」として読むことが可能です。

 

また、『愛が嫌い』に対し、まだうまく喋れない幼い子どもの言葉を代弁するのは暴力的だとコメントした批評家がいました。『ほんのこども』は、まさしく「代弁」の可能性・意義・限界・暴力性を、すなわち誰かが誰かを語るという小説の在り方そのものの可能性・意義・限界・暴力性を徹底的に突き詰め、敷衍し、追求した小説だといえます。

 

一方で『ほんのこども』は、このサイトに部分訳を掲載しているヴァーギノフの長篇『スヴィストーノフの仕事と日々』に少し似ています。後者でも、やはり現実と小説の境界が、書く人/行為と書かれる人/行為の境界がクロースアップされているからです。

 

それから、ドイツの詩人シュヴィッタースの詩『アンナ・ブルーメに寄せて』を想起させます(大木文雄の下記の論文「伝統からの脱出としての総合芸術 : クルト・シュヴィッタースのメルツ詩『アンナ・ブルーメに寄せて』をめぐって」に訳出されています)。

http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/4205/1/41-1-1A-03.pdf

 

ぼくがシュヴィッタースのこの詩を知ったのは10年くらい前で、当時すべてを読んだわけでもないのに、「きみが きみの きみを きみに、ぼくはきみに、きみはぼくに。――ぼくらは?」という一節が鮮烈で、くっきり記憶に残っていました。破格の文法を用いながら、「きみ」にあらゆる角度から肉薄しようとする詩人の水面下で水を蹴るようなもがきは、『ほんのこども』の語り手の切実さと重なる気がしました。

 

知覚するとは何か、認識するとは何か、言葉にするとは何か、小説を書くとは何か、小説を読むとは何か。そういった根源的な問いを、抽象的な議論に終始せずエンターテインメントとして形にした『ほんのこども』は、読者もおそらく作者と同様に悩み、考えながら読むことができ、切実さを共有できます。少なくとも、いま読んでいる体でいるうちは。