ヒーローのいない物語(『鬼滅の刃』について)(История без героя: О аниме "Клинок, рассекающий демонов")

漫画『鬼滅の刃』について思ったことなど。

 

個人的にはこの漫画が傑作だとは思っていませんが、実に魅力的な漫画だと思います。ちなみに、ぼくにとって「傑作」であることは、世界に数ある魅力の一つに過ぎないので、「傑作」だと思うあれこれの作品より、そうでない作品のほうが魅力的に感じることは多々あります。いわば傷があってもその傷を覆い隠すほどの魅力がある作品のほうが、端正に整っただけの作品より好きだということです。

 

さて、『鬼滅の刃』にはたくさんの魅力があります。鬼になることの切なさ、主要登場人物たちを押し潰す運命の容赦なさ、物語の余白、ヒーローがいないこと等々。

 

とりわけ印象的なのは、最後に挙げた「ヒーローがいないこと」です。ここでの「ヒーロー」は、「主人公」の意ではなく「英雄」の意です。主人公の竈門炭治郎をはじめとする鬼殺隊の面々は、強い鬼と戦うとき、一対一では勝つことができません。鬼殺隊の最高位である柱でさえ、一対一では上弦の鬼に敵いません。事実、上弦の鬼の強さは、「少なくとも柱三人分の強さに匹敵」するとされています。

 

<対決表>

上弦の陸×宇随天元、炭治郎、伊之助、善逸、宇随の嫁、禰豆子

上弦の伍×時透無一郎

上弦の肆×甘露寺蜜璃、炭治郎、不死川玄弥、禰豆子

上弦の参×冨岡義勇、炭治郎

上弦の弐×胡蝶しのぶ、カナヲ、伊之助

上弦の壱×悲鳴嶼行冥、不死川実弥、不死川玄弥、時透無一郎

 

時透無一郎が一人で上弦の伍を倒したのは例外中の例外であり、漫画でも「異常事態」と言われています。しかし天賦の才をもった彼でさえ、上弦の壱に片腕を切り落とされ、ついに絶命します。

 

つまり、鬼殺隊には絶対的な強さを誇る個がいない。

だからこそチームを作って一人の敵を倒そうとする。最も典型的なのは、鬼舞辻無惨との戦いです。

 

無惨×悲鳴嶼行冥、不死川実弥、冨岡義勇、伊黒小内、甘露寺蜜璃、炭治郎、伊之助、善逸、カナヲ

 

この戦いにはさらに、珠世、胡蝶しのぶ、愈史郎、隠の人びとが間接的に参戦しており、彼女たちは勝敗を左右する決定的に重要な役割を果たします。

 

「敵×味方」が「一×多」になる構図は、RPGなどのゲームに顕著です。『鬼滅の刃』という漫画自体がRPGと似た構成を終盤に見せるのも興味深い点です(隠された剣=隠しアイテム、無惨城=ラストダンジョン等)。

 

この漫画には突出した力をもつ英雄がいません。いや正確にいえば、かつてはいましたが、今はいません。いないからこそ力を合わせ、死んだ仲間たちの遺志を継いで戦う。

 

主人公の炭治郎は柱になれないし(匹敵する力を付けたとはいえ)、日の呼吸を完全に使いこなすことは結局できませんでした。英雄の子孫でもありませんでした。炭治郎の痣は他の隊士にも出現し、「透き通る世界」が見える目も彼ひとりの所有物ではありません。

 

主人公の能力がこれほど他者の能力に埋もれてしまう物語は珍しいのでないでしょうか。主人公の力を他の登場人物と同等かそれ以下にしようとする作品の姿勢は、物語の中盤辺り(遊郭編)から徐々に顕在化してゆきます。

 

炭治郎はヒーローではない。他の誰もヒーローではない。世界にヒーローはいない。それこそが『鬼滅の刃』の思想なのだと思います。

 

ここから、事を成すのは絶対的な力をもつ個ではなく、遺志を継いだ多である、という作品のテーマが説得力をもって押し出されてくる。

 

ぼくが『鬼滅の刃』を魅力的だと感じるのはこの点だけではありませんが、わざわざこのサイトで取り上げたのは、まさにこの点が理由です。というのは、2012年にこのサイトを作成した目的が、ハルムスを研究するため「天才の出現を待つよりも、専門家以外も含む集団によって知を深化させること」にあったからです。

 

「事を成すのは個より多ではないか」という当時の自分の気持ちと『鬼滅の刃』を底流している思想・テーマとが共鳴しているように感じたわけです。

 

『鬼滅の刃』のテーマは、この世界ではほとんど常に悪意のほうが善意より強い、という考えと背中合わせです。壊すのは容易だが作るのは一人ではできない、という前提に立たたなければ、「多」を信じる思想は生まれないでしょう。

 

どうしてこんなことを書くかといえば、たった一人の悪意によって引き起こされた京都アニメーション放火事件が脳裏にあるからです。

 

小さな善意を横に繋ぎ、縦に伸ばしてゆくほかない。もしかすると、この漫画にぼくが強く惹かれる点は、意志を繋いでゆく主人公たちの眩しいほどの健気さと強さなのかもしれません。